土をつかった伝統工芸

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松代焼 松代焼
長野県長野市
松代は、現在の長野市の南部に位置する松代藩・真田家の城下町です。
江戸後期、松代藩は地元の殖産興業の一つとして他藩から職人を呼び寄せ、陶器作りを始めました。その結果、松代焼は江戸から明治・大正にかけて信州(長野県)最大の陶器産地になりました。
その歴史は、昭和の初め一度途絶えてしまったのですが、愛好の士の努力で昭和40年代によみがえりました。松代焼の特徴である独特な青い色は、鉄分を多く含む陶土のため出る色で、良質の陶土が採れなかった土地柄の弱点が、逆に松代焼の魅力になったものです。やや古風な印象もある伝統陶器・松代焼ですが、もともと地元に愛されていた陶器でしたので、現在でも毎日の生活の中で活躍しています。
長野市の観光と物産展実行委員会
http://www.nagano-busan.org/commodity/08_kougei/index.php
セト・ノベルティ(レース人形) セト・ノベルティ
愛知県瀬戸市
セト・ノベルティは20世紀初頭に成立、発展した陶磁器製の置物や装飾品です。
ノベルティは元々ドイツが主要生産国で、北米を中心に輸出されていましたが、第一次世界大戦の影響でドイツからの供給が途絶えたことを契機に、瀬戸でのノベルティ生産が盛んになっていきました。長年のやきもの作りで培われた技術と瀬戸産の良質な原料が用いられていることから、精密で芸術性の高い製品が多いのが特徴です。
レース人形は、本物の綿生地のレースを立体裁断し、そのレースに磁器土を手で何度も染み込ませドレスを形作り、人形に着せ付けしていきます。着せ付けた人形を窯で焼成し、次にグレイズ(上薬)を掛け再び焼き上げます。その後、顔・手等が描かれ、再度焼成されて完成となります。
瀬戸陶磁器工業協同組合 http://www.setomono.or.jp/
瀬戸焼振興協会 http://www.setoyakishinkokyokai.jp/
瀬戸染付焼 瀬戸染付焼
愛知県瀬戸市
江戸時代後期に加藤民吉が磁器の焼成技術を九州から瀬戸の地へ持ち帰り、広めたことを契機に、瀬戸での染付磁器の生産は質・量ともに急速に発展しました。磁器の焼成技術と中国風の柔らかで潤いのある絵を施す絵付技術がお互いに影響し合い、瀬戸染付焼の技術・技法が確立されました。
瀬戸染付焼の特徴は、素焼した生地の表面に直接筆で細かい模様を描く下絵付けです。呉須絵の具の藍色から生まれる色彩で、鳥や花、昆虫や風景を磁器の表面に細かく描く技術はこの産地独特のものです。また、潤いを持った仕上がりにするため、焼成時に「ねらし(一定時間窯の温度を高温のまま維持)」を行い、釉薬を熟成させるところにも特徴があります。
瀬戸染付研修所 http://www.seto-cul.jp/multimed/
瀬戸焼振興協会 http://www.setoyakishinkokyokai.jp/
赤津焼
愛知県瀬戸市
赤津焼の起源は奈良時代に焼かれていた須恵器という土器にまで遡ります。
伝統的工芸品に指定された七色の釉薬(赤津七釉)は、平安時代の灰釉に始まり、へら彫り、印花等の装飾技法による華やかな文様によって花開き、鎌倉時代には、鉄釉、古瀬戸釉の出現により、貼付け、浮彫り等の装飾技法に一段と磨きがかかりました。鎌倉時代に釉薬を用いたのは赤津地方のみであったといわれています。
その後、桃山時代には茶華道の発展の影響を受け、志野釉、織部釉、黄瀬戸釉等、各種釉薬の技法が確立され、江戸時代の初めになると尾張徳川家による尾州御庭焼によって御深井釉が用いられるようになりました。尾張徳川家の御用窯として栄え、現在まで続いています。
赤津焼工業協同組合 http://www.akazuyaki.jp/
瀬戸焼振興協会 http://www.setoyakishinkokyokai.jp/
萬古焼 萬古焼
三重県四日市市
萬古焼の誕生は今からおよそ270年前。焼き方にも形にもとらわれない自由な発想から生まれた萬古焼は、「萬古の印があることがいちばんの特徴」と言われるほど形は多彩。現在も土鍋や急須、花器などを中心に、四日市市と菰野町周辺で100以上の窯元がその歴史を紡ぎ続けています。
萬古焼を代表する製品の一つが「土鍋」。萬古焼土鍋の大きな特徴は、その陶土にあります。陶土原料に40~50%のリチウム鉱石が含まれており、特に優れた耐熱性を発揮するのです。四日市萬古焼の土鍋は、空焚きや直火に対しても高度の耐久性を持つ“割れない土鍋”として、全国に普及。国内生産高の約80%を占めており、街中で見られる国産品土鍋のほとんどが萬古焼と言っても過言ではありません。
萬古陶磁器卸商業協同組合 http://yokkaichi-banko.com/
萬古陶磁器工業協同組合 http://banko.or.jp/
萩焼 萩焼
山口県萩市
萩焼は、後に茶碗戦争といわれた豊臣秀吉による朝鮮出兵に出陣した大名たちが、朝鮮より連れ帰った陶工によって始められたことを起源としています。
萩焼の場合は、毛利輝元が関ヶ原の敗戦により、居城を広島から萩へ移したことに伴い陶工李勺光(りしゃっこう)・李敬(りけい)の一統も萩に移り住み、開窯したことに遡ります。
以来400年の間発展を遂げた萩焼は、伝統である茶陶、普段使いのうつわや花器、萩の陶土を用いたオブジェなど、現在では多種多様にわたる分野への拡がりをみせています。
萩焼の大きな特徴は、焼き上がりの土の柔らかさとその吸水性にあります。長時間かけて焼成するため、土があまり焼き締まらず高い保湿性を持っています。また長年使っていくうちに、茶がうつわに浸透して茶碗の色彩が変わることから「萩の七化け」と珍重されています。
萩焼 http://hagi-kankou.com/souvenior/16/
薩摩焼 薩摩焼
鹿児島県鹿児島市
秀吉の朝鮮出兵に同行した当時の薩摩藩主・島津義弘が陶工を伴い帰国したことで、高度な陶芸がこの地に花開きました。
かつて藩主御用品として限定されていた「白薩摩」は、貫入(ひび)の入った象牙色の生地と華やかな絵付けで繊細かつ優美な風合いが持ち味。一方、庶民用として焼かれた「黒薩摩」は素朴なぬくもりが楽しめます。
鹿児島市「鹿児島の特産品」
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/6keizai/6-4-1a/6-4-1-3/0003067.html
常滑焼 常滑焼
愛知県常滑市

 「常滑焼」は、愛知県常滑市を中心に古くから作られている焼き物で、鎌倉・室町時代には、大型の壺や甕を得意とし、海に面していることから海運業が発達していたため、東北・関東・中部・関西・中国・九州地方まで日本全国に運ばれ使われていました。
江戸時代に入ると、真焼けの陶芸品が加わり、江戸末期には土管や朱泥茶器などが作られるようになり、明治時代には西欧の技術が導入され、機械化が始まり陶管、焼酎瓶、煉瓦タイル、衛生陶器などの生産が始まり近代産業の仲間入りをしました。その後、技術の飛躍的進歩を遂げ近代設備による大量生産が始まり製品の種類や質、生産額も大きく伸び現在の産地となりました。
また、日本六古窯(常滑・瀬戸・信楽・越前・丹波・備前)の一つであり、長い歴史と伝統を誇る常滑焼の中でも特に有名なのが急須などの茶器です。鉄分を多く含む陶土を、釉薬をかけずに堅く焼き締めたオレンジ色の朱泥(しゅでい)の急須は、常滑焼を代表する焼き物です。常滑焼の急須で淹れたお茶は旨味と渋みのバランスが良いと言われています。また、長年の経験で培われた技術で作られた急須は湯切れが良く軽いので、非常に使い勝手が良いことも特徴です。茶こしがセラメッシュなどの陶製のものや、ふたがないもの、取っ手がないものなど、様々な工夫を凝らした急須が作られています。

とこなめ焼協同組合 http://www.tokonameyaki.or.jp/Contents/Default.aspx
常滑陶磁器卸商業協同組合 http://www.tac-net.ne.jp/~orosisho/

美濃焼 美濃焼
岐阜県土岐市

岐阜県東濃地方では、土岐市を中心に多種多様なやきものが生産され、これらは総称して、「美濃焼」と呼ばれています。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて花開いた桃山文化の時代には、千利休の弟子、古田織部が茶道界に君臨し、織部が茶の湯の世界に打ち立てた個性豊かな新風を、美濃の陶工たちが受け止め、織部好みの茶陶「織部」が焼かれました。そして茶人たちの意思が結実し、志野・織部・黄瀬戸といった日本を代表する器が生み出されました。明治以降、土岐市では恵まれた磁器原料を背景に、さまざまな和洋食器が焼かれるようになり、長い歴史と量産化技術の研究の成果により、現在は日本一の陶磁器生産量を誇っています。
特徴は、その奇抜な奇形・加飾にあります。沓形に歪められた茶碗や型打ちによって成形された向付のおもしろさ、それらにあしらった花鳥風月や幾何学文など文様の楽しさは、長い年月を経て現代でも新鮮な感じを与えてくれます。

土岐市美濃焼PR委員会 http://www.toki-minoyaki.jp/